僕は手術が出来ない獣医さん

動物行政、動物愛護、殺処分等について、動物愛護センター獣医師としての勤務経験を通して感じたことをつらつらと。あとはフォトグラファーとしての活動もつらつらと。

行政獣医師として。まずは自分の話。

アフェリエイトなど微塵もわからない自分自身がブログなど書こうと思ったのは、公務員という立場上、言いたくても言えないことや上げたくても上げられない声を、ただただ書きたいと思ったからである。

三か月後、2020年3月末をもって、僕は行政獣医師、つまりは公務員獣医師を辞める。行政獣医師として今感じていることを、ただ残したいのである。

 

まずは自分自身のことを。

京都に生まれ、滋賀で育ち、京都で1年の浪人を経て、大阪の大学に入学した。大阪の大学で8年を過ごし、その後とある自治体の職員として働いている。

幼少期より動物が好きで、小学生時代に「動物のお医者さん」を志し、今に至る。「金儲け主義ではない獣医さんになる」と宣言した小学生は、長い年月を経て、「行政獣医師」という、まさに金儲け主義ではない獣医師となった。

僕の小学生時代は、Jリーグに日本が沸いている、まさにそんな時代であった。父の会社の関係上、一応は浦和レッズのファンということになっていたが、僕自身はスポーツは観るよりやりたい派だった。ところが厄介なことに学校の健康診断で不整脈が見つかり、同級生が皆サッカーを始めていく中、僕はその波に乗ることが出来なかった。

そんな僕が中学校で出会ったのがバレーボールだった。中学時代には県の選抜に選ばれ、春の高校バレーの県予選では決勝まで行き、一応のTVデビューもした(笑)。そして20年経った今でも現役のバレーボーラーを自負している。高校生活、大学生活の思い出のほとんどはこのバレーボールが占めており、大学時代に立ち上げたチームで今も一回り違う大学生たちとともに汗を流している。

本来6年で終わるはずの大学生活を8年も過ごしたのは、4回生後期で配属される研究室で「ちょっと色々あった」からである。今で言うところの、「アカデミックハラスメントアカハラ)」のようなものに遭い、研究室を移ったりとしている間に、いわゆる単位の関係でストレートの卒業が叶わなかったと、まあ言わばそれだけの話である。今となってはそれだけの話なのだが、当時はそれはそれは病んだ。死ぬことばかりを考えていた。しかし、結局のところ死ぬ勇気はなかった。そんな経験から、僕はどんな学生に対しても「社会人に出たら通用しない」とか、そんなことは全く思わないし、学生には学生の悩みがあり痛みがあり考えがあるということを肝に銘じ、学生たちと接している。

もしもこのブログを、かつての僕と同じような境遇にいる学生が読んでくれるとしたら、コメントなりメッセージなりをもらえたら、もしもこんな僕の経験がほんのちょっとでも役に立つなら、何らかの力になりたいと思う。

 

そんな僕が、行政獣医師として某自治体に就職することになった理由はただ一つ、「獣医師免許を持っていれば絶対に受かると聞いたから」。そんな動機で入庁を果たした僕を待ち構えていたのは、なかなか刺激的な日々だった。